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bpといえば・・・

一度金融の世界に身を浸すと、語彙体系をバイオに戻すのに少々時間がかかります。


1年前は「40bp」という文字を見ても「40ベースペア」としか読めなかったのに、今では「40ベーシスポイント」が最初に思い浮かびます。

(ベーシスポイントは一般に0.01%のことですが、金利の単位として広く使用されています)

無論、「株」もstrainに代わってstockの意味が最初に来るようになってしまいました。

他には
「CD」(円偏光二色性→社債)、
「TB」(結核→米国短期国債)
などなど。

もはやニューロンの電位グラフが株価チャートにしか見えなかったり





「ついにこいつも金儲け主義の株屋に成り下がったか・・・」





という声が聞こえてきそうなのですが、それは偏見です。(たぶん)

なぜ?

1点目。
株や債券を扱っていることと、株や債券で儲けていることは全く別のことです。

マーケットと呼ばれる部門は確かに株や債券でも儲けていますが、投資銀行部門と呼ばれる部門は株や債券の売買で儲けることはしません。

お客様である企業に対して、M&AやMBOなどの戦略を提示し、その道具として株や債券を使用するだけです。

あくまで道具。

儲けの源泉はアドバイス料(手数料)。

「ピペットマンを使って実験する」のと「ピペットマンで儲ける」ことが全く異なることに似ています。

そりゃ確かにピペットマンなしには実験は進みませんが、しかしそれはピペットマン至上主義になったことを意味しません。

ちなみに私が所属するのもこの投資銀行部門。

よって、株や債券で儲けることにはあまり興味がありません

他の社員もあまり興味がないように見えます。

そんなことよりもお客様の業績が上がるスキームを提示することにエネルギーを使ったほうがよっぽど儲かりますし。


2点目。
そもそも株屋はダメなのか、と開き直ってみる。

確かに証券業界の中でも、株や債券で儲けるトレーダーの地位はあまり高くないのではないかという印象を受けます(給料は高いですよ)。

「彼らの行為は産業の大局的な構造変化には何ら寄与しない」等、理由は様々あるようですが。

実際、日本とは異なり欧米ではトレーダーはあまり学歴の高くない人が就く職業という事情もあり、その当たりの文化が輸入されている可能性もあります。

(さらに、トレーダーの中でも「テクニカル分析」を信奉する流派と実体経済を重視する流派で真っ向から対立しており、お互いがお互いを蔑視する傾向にあります)

がしかし。

株屋がそんなに悪いのかと。

バブル期のせいで「株は危ない」という認識が日本にいまだ蔓延していますが(株に「手を出す」という表現がその意識を象徴しています)そもそも株というシステムは経済に不可欠です。

たとえるなら、塩分の過剰摂取で死にかけた人が「塩分は危険だ」と言って塩分を遠ざけることに似ています。

それは塩分が悪かったんじゃなくて塩分の扱いが悪かっただけだろう、と。

「株屋」は経済の栄養を循環させる役割を担っているわけで、「成り下がった」という表現が当てはまるような職業とは思いません。

ピペットマン職人は、研究のイノベーションには寄与していませんが、研究のスピードアップには貢献しているわけですよ。

(しかも、悪意を持てばピペットマンの価格を不当に高めることだって可能です)




そんなわけで、金融で働く人々を見る目がせめて生暖かくなってくれるといいな、と思う今日この頃です。


(あ、でも研究者志望だった学生が投資銀行に流れ込んでいる現状は素直には喜べません。この件はまた後日)
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東西の壁、海の壁

就職活動をしていて強く思うことの一つは、

非・関東圏にいることの不便さ

です。

多くの説明会・懇親会・試験・面接が東京で行われるため、東京近辺に住んでいない人は往復にかかる時間により非常に大きな機会費用の損失を被っています。

往復の時間があれば、他社の選考プロセスを受けることが可能だからです。

私の場合、東京往復にかかる時間は最低6時間。

これだけの時間があれば試験や面接を最低1つは受けられます。

複数のイベントが同日に重なったとき、「これが同じ場所なら、時間差でどちらも参加できたのに」と思うことは一度や二度ではありません。
今後、そう思うことはさらに増えるでしょう。


もっと会社を絞ればいいじゃん、という意見がありますが、
むしろ会社を絞るために会社のイベントに行く必要があるのです。

特に、説明会や懇親会といったイベントは会社の内情を知る良い機会ですが、こういったイベントほど日程に融通が利きません。
融通が利くのはせいぜい個人面接以降の話です。

よって、個人面接に進むまで会社を切る判断材料さえない、ということが多々あります。

業績などの客観的なデータなら調べられますが、社員の「人となり」はやはり会ってみないとわかりません。
やはりそこで働いている社員が自分に合うかどうかを知らずに入るのは危険だと考えています。


だったら最初から東京の大学に入って入ればよかったじゃないか
という意見は尤もだと思います。

私も大学を選ぶとき、就職を考えなかったわけではありません。

しかし、私のように、高校時代の「やりたかったこと」が大学生活の中で変化することは十分にあるわけです。

私の場合、科学者を目指していましたから、その意味で現在の大学を選んだことには何の間違いもなかったと思います。
実際、これまで研究上の不便を感じたことは一度もありません。

もしくは、大学に入るまで将来の職を決めていなかった人だって多くいるわけです。

こういった人たちは、仮に有能であっても、著しい機械損失を免れません。


ただ、有能な人ほど幼少時代から確固たる将来の目標を持っている場合が多いことは確かです。

よって、企業戦略として、「大学時代に将来の目標が変わった有能な人物」というレアなケースにコストをかけるのは得策ではない、という論理はよくわかります。

よって企業に「もっと地方に目を」と言うつもりは全くないのですが。


そもそも、不利ならその業界を受けなければよい、という考え方もアリです。

一部のメーカーに関しては、東京よりもむしろ地方にいたほうが有利、とい状況は実際に存在します。

ならばそういう会社を受ければ「地の利」を享受できるのですから、そちらを選んだらよいと考えることもできます。

大体、東京の会社を受けるにしても、私は「日本にいる」という地の利(場合によっては「地の不利」)を受けているわけです。

ならば、ある程度最初から選択肢を切らざるを得ないのは仕方がありません。

その意味で、「いま、自分がどこにいるのかを考えよ」というアドバイスは、自分のスキルや性向といったコンセプトの話のみならず、物理的に「どこにいるか」も含まれるということに気付きました。



もう一点、これらのことを考えるうち、「今後、情報インフラはもっと発達する」とも感じました。

地理上の不便を感じるのは、そもそも「東京には職がある」という情報が中途半端に存在するからに他なりません。

存在を知れるようになっただけでも、情報化の功績は大きいのは確かです。

試験にしても、ウェブで受けられることが多くなったのも情報化のおかげでしょう。

しかし、まだまだ足りないと思うのです。

それこそ、3D電話などができて、本当に目の前で社員の人が喋っているようなリアルさで会話ができたなら、東西格差も縮小されるでしょう。

そしてそのように情報化が進んだ先にある最後の壁は、おそらく「言語の壁」と考えられます。

現在、世界中のサイトにアクセスできるにもかかわらず、日本人のほとんどは海外のサイトにアクセスしません。
外国語、特に英語ができないからです。

海外の人々ともっとリアルにコミュニケーションが取れるようになったところで、この壁はどうしようもありません。

昨日私が受けた面接も、3時間中1時間は面接官が外国人だったのでずっと英語で喋る必要がありました。

英語を練習する必要性を強く再認識しました。

普段、英語を読んだり聞いたりするのはある程度できてしまうため錯覚しがちなのですが、喋る能力は全く別です。

日本国内の東西の壁を嘆く暇があれば、海の壁を越える訓練をする方が得策だな、と感じた次第です。

最強の翻訳機へ:クラウドコンピュータと脳科学

ビジネス系の本を読んでいると、英語ビジネスというのは
極めて異質な分野ということがわかる。

「ニーズorウォンツ」が大量にあるのに「供給」が少ない。

3秒に一人が、Googleで「翻訳」と打ち込んでいる。
この人たちのほとんどは翻訳サービスを利用しようとして検索している。

KEI(需要/供給比を示す指標の一つ)は実に20,000。
1,000あればビジネスとして成立すると言われるのに、それを一桁上回る。

数多の英会話スクールが生き残れることに納得。


で、僕は何を考えているかというと、
別に英語でビジネスを起こそうと考えているわけではなく、
この「供給不足」を何とかしたいと思っているわけです。


世界の全てが英語になって欲しくない。
言語の多様性は生き残って欲しい。

でも英語ができないと世界レベルでの情報格差は埋まらない。

英語教育は、成功してもおそらく国内の情報格差を広げるだけ。
万が一”完全に”成功すると、ローカル言語の駆逐を招く。
(だって要らないもん)

というわけで、
やっぱり翻訳機が欲しい。

この目の前にある大量の論文。大量の洋書。

日本語で読めたらどんなに楽か。
こんなに強いニーズがあるのに、「秒単位で正確な翻訳を提供してくれる」翻訳者は存在しない


【“最強の翻訳機へ:クラウドコンピュータと脳科学”の続きを読む】

このブログの方向性

生物は不思議に満ちています。

そもそも、「なぜヒトという生物は『不思議だ』と思えるのだろう?」
ということ自体も不思議です。

「不思議だ」と思えるためには、まず何かを理解して、
その理解が従来の理解と食い違う必要があります。

不思議、を理解するためには、「理解」を理解せねばなりません。



「世界のあり方よりも、世界の存在自体が不思議である」と言った哲学者、
ウィトゲンシュタイン。

「なぜ私たちは世界を理解できるのかが最も理解できない」と言った科学者、
アインシュタイン。

ともにこの世の原理を考え抜き、多くのことを理解してしまったがゆえに、
最大級の「不思議」にたどり着いたのでしょう。



そもそも理解とは何なのでしょう?


「理解とは、点と点だった情報が線で結ばれることである」
という文学的表現は、抽象的すぎて「理解」の実体がつかめません。

「理解した瞬間には脳神経の活動が一気に落ちる」
という論文は、脳神経と理解の関連性を一切説明しておらず、やはり「理解」を理解できた気になれません。


今は空前の「脳」ブームですが、本当に「脳」を調べたら「理解する」が理解できるのでしょうか。
脳を勉強すればするほどそんな疑問が強くなっていきます。

脳科学には大別して2つのアプローチがあります。
一つは、fMRIなどを用いて、全体的な活動を見ること。
もう一つは、脳を構成している神経の仕組みを知ること。

前者は、「脳」を研究している気になれますが、証明が著しく困難なアプローチです。
「脳のこの部分が光りました」という現象から語れることは極めて限られるからです。
たとえば人工衛星から見た「夜の世界地図」は、まさに「どの地域が光っている」ことを見た地図ですが、ここから語れる社会現象は限られているのと似ています。

後者は、強固な物理化学に支えられているため、比較的「証明」が容易なアプローチです。しかし「脳」を研究しているとは言えないという弱みがあります。
「神経」は「脳」ではないからです。
一つや二つの神経の活動がわかったところで、億単位の神経ネットワークである脳は理解不能です。
一人の人間を調べたところで社会は理解できないことと似ています。

いわゆる、複雑系。
「全体を見ても仕組みがわからない」
「構成物を調べても全体がわからない」
物理学が30年前に直面した困難に、いま脳科学も直面しています。

複雑系は、「これまでの科学の理解のしかた」自体に挑戦する営みです。
しかし、「新しい理解のしかた」が妥当かどうか、どのようにして理解しうるのでしょう。

理解のしかた、の理解のしかた・・・。
無限後退の様相を呈しています。


生命とは何か。
どうしたら生命を理解できるのか。
何を以って「理解」と言えるのか。
なぜ私たちは「理解」できるのか。


実験に勤しみつつ、そんなことを考えながら研究生活を送っています。



本ブログでは、徒然なるままに、主に次のテーマでエントリーしていこうと考えています。

1)生命科学の本に関する書評・所感
2)気になるサイエンス・ニュース
3)おもしろかった論文
4)研究生活の雑感

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