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福岡伸一氏:「できそこないの男はいばるな」

日本経済新聞(10月29日夕刊)に、福岡伸一氏の新刊『できそこないの男たち』(光文社新書)について氏がインタビューされている宣伝広告がありました。

「企画・製作=日本経済新聞社広告局」とあるので、光文社独自の広告枠ではなく、日経新聞でしか読めない広告と思われます。

インタビューの冒頭から途中までを抜粋。

-大変刺激的なタイトルですが、まずはそれについて教えてください。

福岡:この本で私が書きたかったことの核心は、「いばるな男!」とうことです。生物のなりたちを見ると、男はそんなにいばってばかりはいられないはずなのです。なぜなら男はすべてできそこないだからです。

―できそこないではない男、たとえば「できた男」はいないということですか?

福岡:そうです。あらゆる生命は最初、メスとして発生します。メスとしての基本仕様を、オス用にカスタマイズすることでオスは生まれてくるのです。
そのカスタマイズは、急場しのぎで無理があるため、男は女に比べて病気やストレスに弱い、ひいては死にやすい生き物となります。

―なのに、われわれ人間の社会生活の中では、男はいばって見えますね。

福岡:確かに。いまだに男が種を植えて、それをはぐくむ苗床が女、という錯誤的な見方があります。
しかし生物学的には、男の優位性は全くの幻想であり、決定的に誤っています。



本書についての批判としては、
「基本的なレベルで科学的事実の誤認がある」とか
「エッセイ的な部分が多すぎて空疎」だとか
「文系の私から見ても説明が冗長」だとか
いろいろなものがありますが、私はこれらの批判に与するつもりはありません。

基礎的な科学的事実の誤認は、プロでも往々にして起こることです。

「あなたの隣の研究室の分野について、基礎から理解している自信がありますか?」

と問われて、自信を持ってYESと言える研究者はほとんどいません。

分野を横断する研究と解説が求められている今、技術的なミスを責め立てると進歩が阻害されると思っています。

「自伝の部分が多すぎる」とか「たとえ話が冗長」だとか言われている点に関しては、「そういう本なんです」としか言いようがないかと。

これが教科書ならともかく、新書なんですから、まぁこういう形式があっても良いと思います。

ポスドク時代の苦労話は、大学院生には参考になるかもしれませんし。


ですが。


「本書で書きたかったことの核心は『いばるな男!』ということです」

と言われてしまうと、突っ込みたい衝動を抑えられなくなってしまったので書いちゃいます。


「生物的にできそこないなら、いばってはいけない」

という考え方は非常に、非常に危険な考え方ではないでしょうか?

いばっていいかどうかの基準って、生物学的な優位性に依拠してるんでしたっけ?

「男」でなくとも、生物学的に優位ではない人ってたくさんいるじゃないですか。

遺伝病を持って生まれてくる人なんてたくさんいます。

彼らは、「生物的にできそこない」という理由で「いばってはいけない」のですか?

性同一性障害の人なんて、福岡氏の言う「カスタマイズ」にさえ遺伝的には“失敗”している状態である場合もあります。

彼らは男よりも劣位なんでしょうか?


氏は「いばっていい条件」を明確に挙げているわけではないので、もしかしたら「男も女も、皆いばってはいけない」と考えている可能性もあります。

でもそしたら「男は女よりも生物学的に見てできそこないだから」という理由付けがおかしい。

この理由を採用する限り、「生物学的に完全に近い女はいばってよい」を強く示唆するからです。

もっと言えば、健常者は遺伝病患者よりもいばってよい、と。

「生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な体を持つ者、
生まれも育ちも才能も、人間は皆ァ!違っておるのだ。
そう、人は差別されるためにある!」

って、どこかで聴いた演説w


「人間は男に生まれるのではない。男になるのだ」って、ボーボワールの言葉をもじっていますけど、ボーボワールは一言も「女(男)の方が社会的に偉い」とは書いていません。

性差を根拠にした社会的差別自体を否定しにかかっていたのです。



根本的な問題として、社会的な優劣の問題を、生物学的な優劣を根拠に語ること自体が大きな間違いだと思います。

これは、氏に限らず一部のフェミニストや一部の保守派も同じなのですけれど。

フェミニスト(の一部)は、「男女に生物学的な性差はない!」ことを主張するのに躍起になっています。

「空間認知の差を論じたこのfMRIの実験はおかしい!」とか
「言語能力の差を論じたこの遺伝実験はおかしい!」とか。

しかしですね、そもそも男女差別を撤廃するために「生物学的な性差を否定」しようとするロジック自体がだいぶおかしい

彼/彼女らは、「もし男女に生物学的な差があるのであれば、差別は許される」ことを暗に認めてしまっているからです。

もしそうでないのなら、早々に生物学論争からは手を引いた方が良いでしょう。

なぜなら、「もし男女に生物学的な差があっても差別は許されない」と信じているなら、生物論争は全く無駄だからです。

「生物学的な差はあるが、しかしその差を論拠にしたこの社会的な隔壁は許されない」と論じるべきなんです。

(っていうか生物論争において勝ち目はないからやめた方が良いかと)


「優位」「劣位」でなくとも、「社会的な役割」を論じる場合も同様です。

「女性の方が、育児に適した生物的な構造になっている」ことが証明されたと仮定しても、
「だから、女性に育児をさせる社会な構造を作ろう」ということに必ずしもつながりません。

「日本人は、遺伝的に(MAO等)リスクテイクをしない」という事実があったとしても
「だから日本人にはベンチャービジネスをさせない税制にしよう」とはならないはずです。


社会的な問題に流れる「思想」は基本的に生物学的な『事実』とは関係がありません。

ユダヤ人がアーリア人よりも生物的に劣ると仮に判明したとしても(そんなことはないと思いますが)
「だからユダヤ人をサポートしよう!」となるか
「だからユダヤ人を殲滅しよう!」となるか
「別に、ほっとけば?」となるかは
社会的な思想の問題であって、生物の問題ではないのです。

なんか冗長になってしまいましたが、何が言いたいって言うと、こう、性を語るならもう少し性の社会的な側面に敏感になったほうが良いかもね、ということでした。
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