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Googleは科学を「ロマンティックでない」ものにするのか

4月号のForesightに、梅田望夫さんによる
茂木健一郎さんのブログ紹介が掲載されていました。

引用されていたのは、茂木さんのブログ「クオリア日記」の
2007年1月23日エントリー

東大での講義がiPodで聴けるようになっており、望月さんはこれを聞いたらしい。

東大講義の内容は、
「Googleは科学者の『ロマンティックな研究態度』にシリアスな問題提起をしている」というもの。

研究者は、コンピューターのような人工知能の先には
人間と同様な知能は存在しないと考え、10年以上も前に見切りをつけた。
しかしGoogleは、人間の脳と全く異なる原理で情報処理の究極に迫っている。

生態とは異なる方法で飛行機を発明した人類は、
同様に今、脳とは異なる方法で「知性の研究」に迫っている。
“Google的なもの”は、「自然の原理を美しく理論的に解明したい」という科学者のロマンに挑戦している。

と、こんな内容。


確かに、考える価値のある問題だとは思います。

ゲノム解析もGoogle的なものの一種でしょう。
とりあえずマシンとコンピュータを駆使して
全情報をアップロードしよう、という。

2日前のエントリーでも、タンパク質の結晶化の自動化について書いたばかり。

ただ、梅田さんは「科学者がGoogleに衝撃を受けている」と解釈していますが
この問題は別にGoogle時代に生まれたわけではなくて、ずっと昔からあったはずです。
Googleによってさらに顕在化が進んだと表現する方が妥当でしょう。

私が思いつく最初の予兆は、30年以上前に解かれた四色定理
地図上のあらゆる区分は、同色が隣り合わない四色で塗り分けられるという
この定理は、簡潔で美しい証明とは対極的に、スーパーコンピューターを
駆使して力ずくで解かれています。


全くロマンティックではありません。
ピタゴラスの定理を、「この世に存在しうる全ての直角三角形について
コンピュータに検証させよう」と言っているような印象を受けます。
(実際にはこんな滑稽なアプローチではありませんが)

けれども、今では「コンピュータで証明」という方法は
数学者に概ね受け入れられています。
初期の反発は、数学者が自分の存在意義に疑問を投げかけられているような
感覚を受けたから派生したのでしょう。
現在は、「正しく証明できるプログラムを作る」という数学者の存在意義
再認識したが故に反発が少なくなったのではないかと。

「Google的なもの」の定義をもっと広く
「機械による大量・高速生産の自動化」と表現すれば、
それはさらに前の産業ロボット開発時代にもあったことになります。
当時も「ロボットに職を奪われる」という反発・懸念がありました。

しかし現在そのような運動はありません。
「ロボットを作る」
「ロボットの動きを設計する」
「ロボットに何を作らせるかを考える」

という、人間にしかできないことの意義がむしろ顕在化したからと考えられます。

ならば、Google的な「知への挑戦」もさほど恐るに足るものとは思えません。
Googleがやっているのは、自らが公言しているように
「世界の情報へのアクセス」であって、「情報の生産」ではありません。
Googleを作ったのは人間ですし、
Googleで何を検索するのかを決めるのも人間ですし、
その検索結果を加工・分析・アップロードするのも人間です。

(そういえば検索システムも「ロボット」ですね)

むしろ、科学者が科学者たる要素が顕在化しているともとれます。
文献を何日も探し回る行為は「科学」ではありません。
その時間が減り、考える時間が増えるなら、むしろ科学者が
もっと科学者らしくなっていると解釈することもできます。

極論するなら、実験自体も「科学」というより「作業」に近いものがあります。
この「作業」を、人にやらせずに自分でする意味は、
「手を動かし、結果の推移を見るうちにカンが養われること」と言われます。
これも、やはり最終的には「考えるための実験」という枠組みを離れてはいません。
データがGoogle化で早く出るならそれに越したことはないでしょう。

(あと、実験は精神的に病むのを防ぐ役割もあると思っています。
考えてばかりで病んだ数学者が、手作業をすることで改善したというのはよくある話)


梅田さんは、このエッセイを次のように結んでいます。
「今後、私たちの世代が想像すらできなかったような『知の基盤』が整備される。
その基盤に圧倒され飲み込まれていくのか、
その基盤の上に豊穣な知を生み出していけるのか。
科学者のみならず、現代を生きる私たち一人ひとりが
真剣に考えなければならない問題なのである」

私は、「豊穣な知を生み出す」のは可能だと確信しています。
よって、考えるべきなのは「飲み込まれるか利用できるか」ではなく
1)「どのように利用すべきか」という問題
2)「真剣に考える」能力と意欲を持たない者をどうすべきかという政治的問題

にシフトしているものと考えられます。
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コメント

私も、「豊穣な知を生み出す」に賛成です。
圧倒的なデータに、意味や価値を見いだすのは人間の判断だと思うからです。
HILOKIさんの意見と同じです。
だからこそ、「何のための科学か」を問うのが大切になりますね。

知とは?

すいません。的外れなコメント書いてしまったので(No relevance)、書き直します

人間の「勘」というのは、どういうものなんでしょうか?分からないです。それに美的感覚を覚えつつも、その存在自体は見えない。ということは、見えないものに対する憧れがあるから、科学はロマンティックなのかな?

その存在が分からないにせよ、「勘」を養うことを人間は怠ってはいけないと思います。Googleの件に限れば、本当に危険な方向に向かっていると思います。このまま何でもかんでもオートメーション化していったら、人間の存在範囲はどんどんなくなっていくのでは?

道具を使うようになったとき、その道具に自己の存在範囲を拡大したのに、その道具が勝手に動くようになったから、自己の存在は自分の体の中に戻ってきた。今度は、脳まで道具が侵略? 怖いです・・・・HALの世界とか、Matrixの世界ですね。

>メシダさん

>メシダさん
いつもコメントありがとうございます。
仰る通り、コンピュータに価値付けはできませんね。
逆に、脳神経が作り出す「価値」の実態は一体何なのかということも不思議に思うこともあります。
もしコンピュータで脳が再現できることがあれば、『何のための科学か』もコンピュータが考え出す日が来るのでしょうか。

>かずくん

>かずくん
なぜ「美」を感じるのかというのも面白い命題ではあるね。
人によって美のセンスも違うし。
でも科学者の多くは、「複雑な現象が単純な法則で説明できる」時、その法則を「美しい」と表現することが多いと思います。
科学自体がその方向性を有しているからでもあるけど。

「勘」を養うのが大切という意見にも賛成です。
でもGoogleが危険な方向に向かっているとは考えていません。
「人間の存在範囲は狭くなる」のだろうか?
「”現在の”人間の存在範囲」は狭くなると思います。
でも、
1) 狭くなってもなくなりはしない
2) 「”潜在的な”人間の存在範囲」はむしろ広くなる
と考えています。

自動車を例に取るなら、自動車の発明で「歩く」という行為の出番は狭くなったけれども
1) 「歩く」という行為がなくなりはしない
2) これまで「歩く」という行為では到達不能だった場所まで行けるようになった
という意味で、むしろ全体的には可能性が広がっていると考えられます。

なんでもかんでもオートメーションすることで、
これまでオートメーションされていなかったからできなかったことができるようになっていく、と考えればいいのでは。

道具自体が意識を持ち始めたら、それは「新たな人間」ができたと考えればいい。
旧来の人間は新人類の創造主になる感じかな。
その新人類が旧人類を駆逐し始めるような事態が出てきたら問題だけど
旧人類はさすがにそれを食い止めるだけのブロックはかける気がする。

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