スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【論文】前頭前野の損傷は極端な功利主義を生む

「前頭前野の損傷は、功利主義的な倫理判断を助長する」
Damage to the prefrontal cortex increases utilitarian moral judgements
(nature 446, 19 April, 2007)


一月ほど前にオンラインで出版され、
他のブログでも少し話題になっていた論文。

前頭前野prefrontal cortexに損傷のある患者は、
功利主義的な倫理判断をしてしまうようです。

功利主義的な判断とは、たとえば:
「電車が、レール上の5人の人に向かって暴走しています。
他の1人を電車の前に突き飛ばして電車を止めれば5人を救えます。
さて、あなたはこの1人を突き飛ばしますか?」
という問題に対して、Yesと答えること。

前頭前野に損傷があると、このように
「少数を犠牲にして多数を救おう!」と思ってしまう、らしいです。



調べた患者が6人だけじゃん、とか
そもそも功利主義って生物的・社会的にダメなんだろうか?
とか、直球の疑問もあるわけですが。

それよりも、コントロール実験に関する記述が気になりました。

この論文、コントロールとして
「自分の行為が直接人の死に結びつくわけではない場合」もテストさせています。

どういうことかというと、電車の例を取るなら、
「電車が5人の人に向かって突っ込んでいる。
しかしレールの方向を変えれば、もう一つの方向に向かう。
もう一つの方向のレール上には1人が立っている」
この場合に、レールの向きを変えますか、という問題。

5人vs1人、というテーマは変わっていませんが、
「自分が手を加えなくてもその1人は死ぬかどうか」という点で異なります。

臓器移植でたとえるなら、
「死にかけand/or脳死の人から臓器を取る」ことに相当します。
つまり一般的な臓器移植ですね。

この場合の判断は、前頭前野に損傷があるかないかに関わらず
全員が「レールの方向を変える(死にかけの人からなら臓器を取ってよい)」
と答えた、とこの論文は言っています。

そして論文はこれをnormal judgment と呼んでいるわけです。


ホンマかい?

僕はかなり功利主義的なので(前頭前野に問題があるんだろうか)
「多数が救えるならイイじゃん」と思ってしまいますが
しかし通常の日本人はそうは考えないでしょう。

脳死移植の時のバックラッシュ然り。

脳死移植でなくとも、「救急トリアージドクター」の導入が遅れ、
最近になってやっと導入され始めたこともそれを象徴しています。

トリアージドクターとは、災害などが起こったとき、
被災者に「緑・赤・黒」などのタグをつけていく医者のこと。

軽症の人と、超重症の人を病院から排除するためです。
軽症の人は病院がなくても生きられる。
超重症な人は病院があっても生きられる可能性が少ない。

「病院に行けば助かる」という人のみを優先的に搬送する仕組み。

これまで日本では、
「命に差をつけるのか」と言って、トリアージがなかなか導入されませんでした。
その結果、軽症の人や超重症な人まで「順番に」病院に連れて行かれたため、
トリアージがあれば救われた人の命が失われていったわけです。

これは功利主義とは間逆の考えなわけです。

仮に人命が地球より重いとしても、
トリアージがいれば「累計として地球よりもっともっと重い」人命が救えるわけで、トリアージ排除の理由になりません。

「電車のレール切り替え問題」であれば、
たとえ電車が5人に突っ込んで行っていても、
1人の方にレールを切り替えることはしない
ということを意味しています。


なぜ?
自分の行為で人が死ぬのが怖いから?
「何もしない」という行為によっても人は死ぬのに?

ここは論理ではない他の何かが働いた判断と考えられます。

前頭前野の損傷が功利主義の助長なら
日本人は前頭前野が発達しすぎてしまったのでしょうか??

極端な功利主義がこの論文が言うようにabnormal なら、
極端な「非・功利主義」も相当にabnormalです。

逆に、この実験が日本で行われていたら
コントロールとして機能しなかった可能性があります。

同じ日本社会で育った人の中で
“normal”な人の前頭前野と
“abnormal”な人の前頭前野で差があればおもしろいのですが。

前頭前野といっても数十億のニューロンを含むので
結局何も原理はわかりませんけれど。

結局、ネタを提供しただけの論文でした。
スポンサーサイト

コメント

初めまして。有名な課題なので一言。

>「電車が5人の人に向かって突っ込んでいる。
>しかしレールの方向を変えれば、もう一つの方向に向かう。
>もう一つの方向のレール上には1人が立っている」
>この場合に、レールの向きを変えますか、という問題。

>5人vs1人、というテーマは変わっていませんが、
>「自分が手を加えなくてもその1人は死ぬかどうか」という点で異なります。

いいえ、自分が手を加えなければ、その1人は死にません。レールの方向を変えれば(手を加えれば)1人が死に、レールの方向を変えなければ(手を加えなければ)、5人が死にます。
これは

>「電車が、レール上の5人の人に向かって暴走しています。
>他の1人を電車の前に突き飛ばして電車を止めれば5人を救えます。
>さて、あなたはこの1人を突き飛ばしますか?」

と同じ構造で、被験者に与えられた選択肢は、一貫して「1人を救うか、5人を救うか」です。

一般のサンプルでは、上のシチュエーション(レールの方向を変える)では功利主義的な判断(Yes)をするのに、下のシチュエーション(自分が犠牲者を突き飛ばす)では非功利主義的な判断(No)をします。
いずれにせよ1人の命を奪うのだけれど、レールの方向を変えることはできても、誰かを列車に突き飛ばすことには抵抗を覚える、と。何が違うのか?おそらく感情が影響しているのだろう、といわれています。

それに対し、損傷患者はどちらに対しても功利主義的な判断を下します。すなわち両方Yesです。

>りいおんさん

ごもっとも。エントリーした当時はクリアカットだと思っていたのですが
今読むと仰る通り意味不明ですね。

感情が影響するとはいえ、その違いは問題設定のどこに起因するのかが興味あるところです。
問題の設定外の状況が原因になってはいないでしょうか。
たとえば、レール切り替えであれば、切り替えた跡に死ぬ1人は自分が選んだ一人ではなく、自分が選びえた選択肢が低い。つまり責任が薄い。
対して突き落とし問題であれば、問題文にはないものの、たくさんの人の中から「その人」を選んで突き落とすのは自分ですし、さらに自分が飛び降りて犠牲になる選択肢も考えられる中で他人を突き落とすのですから、自分の責任が大きく感じられてしまうのではないでしょうか。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。