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自閉症のロビーが科学的根拠のない政策をごり押し

「自閉症の原因はワクチンだ」とするロビーが科学者を沈黙させる
Silencing debate over autism, nature neuroscience 10, p531, May, 2007

アメリカで、自閉症の原因について科学的根拠のない主張するロビーが問題になっているようです。

ロビーの主張は、「自閉症の原因はワクチンに含まれるチメロサールthimerosalである」というものです。
(チメロサールは水銀の有機化合物で、ワクチンの保存剤として添加される)

以下、記事の要約。

1980年代から自閉症が増加したのと同時期に、チメロサールの乳幼児への接種が増えていたため、「チメロサール(に含まれる水銀)が自閉症の原因なのではないか」と疑われた。

これを受けてアメリカは2001年にチメロサールをワクチンから除去

しかしそれ以降も自閉症の増加は止まらなかった。

Institute of Medicineは「チメロサールと自閉症の間に見かけの関連性はない」と結論付けた。

しかし、「チメロサールと自閉症には関係がない」という証拠が増えるにつれて、
ロビーグループの行動も過激化。

「チメロサールは自閉症と関係がない」と言う人は家に繰り返し電話をかけられるなどの嫌がらせを受ける。
研究者だけではなく、ロビー運動に加わらない自閉症の親も攻撃の対象となる。

おまえは自分の子供を虐待しているんだ。殺人者だ。」などの電話がロビーからかかってきたり、
7歳の自閉症の娘に対して嫌がらせの手紙を送りつけたりしている。

The New York Timesには、あたかも自閉症と水銀の関係は証明されたかのような全面広告がロビーにより掲載された。
科学者のリストも一緒に載っていたが、そのほとんどは自閉症と水銀の関係は証明されてないと思っている。

ロビー運動は政治への影響も大きい。
ミネソタ州では、医者に微量の水銀も含まないワクチンを使用するようにさせる法律が成立。
もし微量でもチメロサールが含まれていれば親のインフォームドコンセント(署名)がなければ処方してはいけないことになっている。
ロビーが親に圧力をかけていることを考えると、どれだけの親が署名するのか疑問だ。

水銀は神経毒なのだから、自閉症に関する証拠がなくとも一掃したらいいではないか、と思うかもしれない。
しかしその選択肢もリスクがないわけではない。

チメロサールは保存剤であるため、これがないとワクチンの質が保証できなくなる。
保証しようとすると、値段がずっと高くなる。
ワクチンを打てなくなる家庭も出てくるだろう。
そうでなくとも、ミネソタでは署名など求められたら親は「このワクチンは危険だ」と思ってしまい、躊躇するだろう。


これはもはや科学ではなくイデオロギーなのである。

専門家の最も同意する意見と、
反対意見を圧殺する計略的・感情的な意見。

法は前者を採用するべきである。

そして自閉症の研究者自身が、何が妥当な理論なのかをもっと明確に打ち出さなければならない。

(要約終わり)



TIMEやNewsweekで自閉症が頻繁に扱われるのはこの影響もあるのかも、と思いました。

ただこれらの雑誌では水銀については注目されておらず、脳や遺伝子に注目しています。

大衆紙が冷静なのには安心します。


あと、自閉症に限りませんが、昨今は「政府による」市民への圧力ではなく
「市民による」市民への政治的圧力が増えているように感じます。

たとえば昔は、マッカーシズムのように、政治家が
市民やマスコミの言論の自由を抹殺するという構図が一般的でした。

それに対して市民やジャーナリズムが政府に立ち向かう。
マローなどがその代表。

しかし最近では、国民自身が敵対者の言論を抹殺する方向に動いています。

たとえば、アメリカでは大学の教授のほとんどは民主党なわけですが、
共和党の学生が戦争学の講義を録音してラジオ放送局に送りつけ、
それが放送されるということも頻繁に起きています。
そしてそれを聞いた共和党の市民がその教授に嫌がらせをする


この構図では、いわゆる「民主主義」が機能しないのが厄介です。
運動の意思決定者が「民」ですから。

この自閉症の記事では
「科学政策は一般市民ではなくて科学者の意見に従ってくれ」
と書いていますが、それは根本的には民主主義の精神に反します。

そのような議論が成立するなら、
「政治は政治の専門家に任せてくれ。
一般市民は国際情勢や経済学なんて知らないでしょう」

という話になってしまいます。

私としては、理想的には「専門家に任せよ」の意見に賛成なのですが
(たとえばいつかの郵政民営化にしても、郵政を勉強した人と
何も知らない人が同じ価値の一票を持っていたのは納得がいきません)
少なくとも現在のシステムを維持する限り、政策は真実より民意が反映されます


数としては少数派の科学者は、政策上では「科学的真実」を決定できる立場にはいません。

「研究者の本分は研究なのだから、大学の講義などの教育に時間を費やすのは無駄」
と言われることもありますが、研究者たちも一種の「ロビー」として
教育に力を入れることも多分に必要なのではないか
と思います。

科学的真実と、国民が持つ真実を整合させるために。
ひいては、保身のために。
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コメント


法律の世界でも同じようなことが言えるかも知れないです。

分かりやすいのは、刑事事件です。

大事件の場合、裁判で判決が出るまでの間に、マスコミがこぞって事件を報道しますが、その過程で、裁判官による判決に先立って、世論による判決が下されてしまうという現象があります。

被告人に対して厳しくすべきだという世論なのか、そうすべきではないという世論なのかは一概に言えませんが、いずれにせよ、ある程度の段階で世論の大勢が決まると、それに背くような意見を出す団体に陰険なハッシングが行われるという構図です。

それは、裁判所に出向いた市民が横断幕を持って講義をするという古典的な意見表明のあり方とはずいぶん違います。

「長いものには巻かれろ」とか「出る杭は打たれる」とかいった風潮なんでしょうが、どんな意見にも誤謬の余地はあるので、それをできる限り早い段階で軌道修正する機会を担保する観点からは、あまり良い傾向ではないですね。

どんな問題について思考するにも、早く答えを出して安心したいという心理はわかりますが、だからと言って、出された結論が絶対的に正しいと言えるかどうかは完全に別問題だと思うんです。

>naoki

コメントありがと~。

マスコミと世論による断罪は本当に怖いと思います。
マスコミも世論も、叩くだけ叩いておいて、たとえば冤罪だったときには何の責任も取らないもんね。

僕は政策や判決が「絶対に正しい結論」に向かう必要はないと考えているので
(それによって決定が遅れることのコストの方が大きいと考えられるので)
極力早く結論を出そうとする方向性は悪くないと思うのですが、
一般市民は刑事事件に対して「判決」を下す立場にないと思うんですよね。
証拠の検証能力がないじゃないですか。
なのでそもそも「判決」を下してはならないと思うわけです。
「有罪」という判決が出されて初めてその人は「犯罪者」になるわけでして。
「容疑者」と報道された段階で犯人と断定して断罪するのはどうかと。

多数者少数者

米国の政治思想史をみると、建国の父たちは、制度設計に際して「少数者の独裁」に対すると同様、「多数者の独裁」に対しても、それを防ぐ手だてを周到に考えていたことがわかります。

この点が、欧州のその後の民主主義の実験で見失われる事が多かったのが、前世紀の両大戦間の悲劇の原因の一つです。これには米国建国の父たちの想定に入っていなかった、マスメディアの急速な大発展の寄与も大きかったと思われます。

振り返ってネットの急速な拡張期である今このときをみると、制度設計の不備から、多数者の横暴を許し、結果的に個人の市民的自由が制限を受ける例がだいぶ増えてます。

もう少し経って制度が安定するまでは、今の世はある部分で一種のwild west時代に戻ったと考えて、自己防衛を怠らない必要があるのでしょう。

>ラムさん

いつもコメントありがとうございます。

米国建国の父たちがそのようなことを考えていたとは知りませんでした。
米国の政治思想史を概観するのに適切な書物などありましたら教えて頂けると幸いです。
トクヴィルの『アメリカの民主主義』辺りしか触れたことがありませんので。

「多数者の暴力」を防ぐ手立てを為政者が積極的に考えたのは、
建国時に「他の州による自分の州への横暴」が起こることを恐れたからではないか、とも推測できます。

多数者による独裁が正当化されてしまうような「安定した制度」にならないことを祈るばかりです。

ド・トクヴィルのは無論稀代の名著ですし、おそらくあれに比肩する書はその後も出てないんじゃないでしょうか。欧州の貴族的自由主義者の彼からすると、米国の「民主政治」が大衆の専政への危険を内包して危うく見えたのでしょう。しかしよく見ると「democracy」という言葉が嫌いだった人が多かった米国憲法起草者たちも、特にジェファーソンなんかは、ド・トクヴィルに非常に似た政治観をもっていたように思います。米国は憲法上は、「主権が民にある」国としての「民主主義国家」ではなく、「主権」という概念自体を排除した「独立自尊の個人」の契約集合体としての「共和国」です。日本でよく嘲笑の対象になる「個人の武装権」を含むBill of rightsを読むと、その点が非常にはっきりします。その憲法起草者たちの遠い後継者たちが「書いた」とされる「主権在民」の日本国憲法とは大分おもむきが異なります。最近かまびすしい憲法改正議論で「主権在民」派と「主権在公」派の争いがみられるようですが、たまには頭を冷やして「主権」というリヴァイアサンが立ち上がる事自体を拒否している米国憲法についてみてみるのも悪くないかもしれません。

>ラムさん

私にとっては新鮮な見方で、非常に勉強になりました。
なるほど、確かに米国は「民」全体に主権があるという考え方ではなく
「独立した個人の契約集合体」として振舞っていると考えた方が納得がいきます。
「個々人が神と契約している」聖書的な影響もあるのでしょうか。
いわば個々人が国家的な主権を有している状態だからこそ、『国家の自衛権』と同等の『武装権』が認められているのですね。

そう考えると、GHQが起草した日本国憲法には、「民全体に主権がある」と感じさせるような文があるのは不思議です。
(前文の we proclaim that sovereign power resides with people や9条のthe Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nationなど)
日本にはこの考え方のほうが馴染みやすいと考えたのでしょうか。

Bill of rights,一度真剣に読み直してみようと思います。

主権と自由

出鱈目に付けた名前も飽きたので、ハンドルをもっと相応しそうなのに変えます:)

私自身二十歳過ぎて、修行として米国で長々過ごすまで、アメリカは主権在民のモデルと単純に考えてました。実際に出会った「理念の共和国」の姿は、日常のミクロな人と人との間の社会関係の全く異なったモデルでした。単純化した寓話で話しましょう。

原始時代の原野で利害の衝突する二人の戦士が出くわしたらどうなるでしょう?一方が他方を殺すか奴隷化するまで戦うでしょう。このような遭遇が繰りかえされた結果、一人だけ自由人がいて、他の戦士は死に絶え、生き残りはみんな彼の奴隷になった安定状態を想定できます。この自由人がsovereignなわけです。自由人が賢い主権者であった場合には、秩序を保つために残りの奴隷たちを律する法を与えます。今は奴隷となった民草ですが、元々は勇気と知性をもった誇り高い戦士たちですから、やがて帝王と呼ばれるようになる賢明な主権者の立法のもと、文明が立ち上がるかもしれません。在りし日のバビロンのように。

一方また、地理的障害やその他の事情で、全ての戦士が出くわさずに、それぞれ結構な数の奴隷を従えた自由人が何十人か残って、彼らが併存したままのにらみ合い状態が何年も続く、というシナリオもあり得ます。これだと諍いや復讐合戦が絶えず、不安定きわまりない地獄のような世界です。今日のバグダードを考えてください。でもそのうちに自由人の中に賢いのが何人か現れて、お互い争ってもココまでにして、どちらかがギブアップしたら深追いはしないという約束ごとの体系が発展するかもしれません。これが共和制です。この契約を保証者するための王を立てるかもしれません(聖書のユダヤ王の起源はこうですね)。場合によっては遠くから別の部族の首領を招いて王になってもらうかもしれません(ロシアのリューリック朝の起源の話のように)。王は主権者ではなく同等者の中の第一人者です。

日本の歴史を雑に見ると、古代と近代現代が主権モデルで、中世が「共和的王制」モデルかも知れません。

>パングロスさん

大変勉強になるコメント、ありがとうございます。
多方面に渡り深い知見をお持ちのようで、目標にさせていただきます。

バビロニアとユダヤ王(ヘロデ~ソロモン?)の例はよくわかりました。
ロシアのリューリック朝に関しては全くの無知なので、今後勉強したいと思います。
別の部族から王を招くということがあるのですね。
同一部族内では、これまで戦ってきたしがらみが多くて中立性が保てないと判断したのでしょうか。
日産が外国からカルロス・ゴーンを招いたことで再建に成功したことを想像してしまいます。

日本の例もわかりやすかったのですが、中世後期の戦国時代にあっては誰が「契約保証者」に相当するのかと考えてしまいました。
当時の天皇は契約を保障できるほどの権威を持っていたとは考えにくいので。

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