スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

霊長類研究所40周年記念公開講座

昨日、京都大学霊長類研究所40周年記念講演に行ってきました。

講演中、何度も携帯電話を鳴らすジィサマや
質疑応答で論題と関係ない自説を大声でまくしたてるジィサマなど
マナーの悪い聴衆に苛立ちながら聞いていました。
(『一般講演』はこういう点が問題ですね。良識ある一般市民を遠ざけてしまいます)

しかし講演自体は面白かった。
冒頭でのアユム君のビデオは、私を含め全員が驚嘆していました。

画面上にランダムに配置された1~9の数字を順にタッチしていくタスク。
通常の人間より速いのですが、これは別に驚きません。

問題はその変形バージョン。
数字の1を押した瞬間、2から9までの数字はただの四角に変わってしまいます。
つまり1を押すまでに全ての数字の配置を覚え、正しく順番に押さなければなりません。

アユム君はこれを瞬時にやってのけます。
数字が現れてから0.5秒ほどで1を押し、その後も高速で2から9を押して行きます(数字は見えないのに)

すごーい。

無論、これをもって「アユム君のほうがヒトより賢い」という話にはなりません。
チーターのほうがヒトよりも早く走れますが、その事実をもって「チーターのほうがヒトよりも運動神経が良い」という話にはなりませんし。
知能や運動神経といっても様々な個別能力があり、種によって特異・不得意があるという話。


松井智子先生の話も非常に興味深いものでした。

サリーとアンのテスト(過去ログの注記参照)を変形させて、
様々な実験をしていました。

たとえばアンが人形を隠す場所を2つ用意し、どちらに隠したか子供にはわからないようにすると正答率が上がる、とか。

「人形はおもちゃ箱の中『だよ』」
「人形はおもちゃ箱の中『かな』」
など、文末を変化させることで正答率が変わる、とか。
(Tomoko Matsui et al, on the role of language in children’s early understanding of others as epistemic beings, Cognitive Development 21, 2006)


自閉症の子に対してもこれらの結果は有効なのか、とか
3歳児の子にオキシトシンを嗅がせてもサリー・アンのスコアは上がるのかとか
自分がこの分野にいたたらやってみたいことはいろいろあります。
(鉄銅実験の感は否めないので、もっと根本的なことを調べる必要はありますが)

他にも、バイリンガルの子は相手の気持ちを察しやすいということも
紹介されていました(実験データはありませんでしたが)。
これは納得がいきます。
相手がどの言語を知っているか考えないと通じない、
ということを経験しているはずですから。

となると、日本語だけで育てる場合も、説明が拙い場合は
「わからない」と言ってあげることが大切なのかな、なんて空想したり。



こういった現象論的なアプローチは、考えるヒントとして強力ですが、
同時にコントロールを取るのが難しいな、とも思いました。

たとえば、
「ヒトは自分が知っていることを他人も知っていると思い込む」
という傾向を証明するために次のような実験が紹介されていました。

魚の画像に少しずつモザイクをかけていった写真群を用意します。
それらを目の粗いほうから順に見せていきます。
最も目の粗い写真を1、最も目の細かい(=モザイクのかかっていない)写真を10としましょう。

グループAには、その写真が魚であることを知らせず、
1から順に写真を見てもらって、それが何の画像であるかわかったところで答えてもらいます。

グループBには、それが魚の写真であることを伝え、
「他の人はどの段階で魚とわかると思うか」を答えてもらいます。

Aは写真7くらいでやっと答えられるのに、Bは「写真5でわかると思う」と答えた、というのがこの実験の結果です。


これ、「自分の知っていることは他の人も知っている」と思い込む、
という実験をどこまで正しく検証できているのか、若干疑問が残ります。

AとBが同じ画像を見ているという保証がないからです。
Bは、魚と知っているが故に、多少目の粗いモザイクでも頭の中で補正し、もっと「目の細かい」写真に見えてしまっている可能性があります。
つまり、極端に言えばAが見た写真7とBが見た写真5は、両者の脳内では同値である可能性があります。


思い込みによる視覚の錯乱は珍しくありません。
たとえば昔の天文学者は、火星には河の跡があると『知っていた』が故に、
火星の表面に本当に「河の跡」が“見えた”のです。
(誠実な天文学者たちのスケッチが多く残っています)

ロケットが火星に到達して写真を撮って以来、その『河の跡』が見える者は一人もいません。

つまり、「自分の知っている知識は他の人も知っている」からではなく、「知識のせいで視覚が狂った」可能性のコントロールを取る必要があると思うのです。

(あ、ちなみにこの「自分が知っていることは他の人も知っていると思う」仮説は個人的にとても賛成です。私自身にその傾向があるので)



もともとコントロールを取るのが極めて難しい分野なのであまり文句も言えませんが。

言葉の現象論的な解析にも興味がありつつ、それでも私が分子生物学を選んだのは
証明として自分が納得できるのはこちらしかないと感じたからでもあります。

しかし今のことをずっと続けていたら『言葉』にはたどり着けなさそうだからなぁ。
どうしようか。
スポンサーサイト

コメント

「自分の知っていることは他の人も知っている」と思い込む
このとき,他の人とはいったい誰のことか,という点が問題なわけで,
<他者>とは,けっきょくのところ自分の脳内に作り上げられるものとすれば,
Bの人が,補正して「見る」,5の画像が,Bの脳内に形成された<他者>と
考えることができるのではないかとおもいます.

「AとBが同じ画像を見ているとはかぎらない」が,
Bが補正して「見る」ときの,Bこそ,Bにとっての<他者>なわけです.

>とおりすがりさん

コメントありがとうございます。
なるほど、確かにそう考えると実験の意義があるように思えてきます。
ただそうなると、「Bにとっての他者としてのB」をメタ認知しているBの意識が必要となり、それは「思い込む」という意識下のプロセスを調べているのかと言う別の問題が出てくるように思えてしまいます。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。