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『生化学 若手の会』雑感(2):先生方のメッセージ

今回の「若手の会」では、「海外留学ってどうなの?」というテーマのもと、
海外でPIを務めたor務めている人々のお話を聞くシンポジウムがありました。

海外事情に加えて、それぞれの先生の「学生へのメッセージ」が加えられており、
しかも皆さん仰ることが異なるので興味深く聞いていました。
4時間があっという間でした。

以下、特に印象に残っていた先生方の紹介とメッセージ。


●白楽ロックビル先生

『博士号とる?とらない?徹底大検証!』などの啓蒙書で知られる人。

実は私、この本の書評を7年前(高校生のとき)にネット上で書いたことがあり、
今ではその書評が白楽先生のHPに転載されています。
大変恥ずかしいです。
転載されるとわかっていたらもっとマジメに書いたのに・・・。

何にせよ、当時から白楽先生のファンだったので、今回挨拶を交わすことができてとても嬉しく思いました。

メッセージは;

「熱く生きよ!」

「今、面白いことをしろ!」





●近藤久雄先生

熱い人でした。
「熱く生きよ!」なんて言葉にしなくても、
全身から熱いオーラが出ていました。

私が文字にしてもその熱さは全く伝えられないので残念です。
それでも備忘録的にメモしておくと;

「ポスドクになったら分野を変えること。単なる競争ではなく、『誰もやっていないこと』をやること。博士課程までの分野と、ポスドクでの分野を融合させることで、オリジナルな分野が開ける。」

「分野を変えても、基礎力があれば何も問題ない。」

「『速い頭』より『強い頭』」

「考えるプロセスを大切にすること!」

「日本の研究者たちは、『将来は独立しよう』と思っていないように思う。PIは独立心がなければ無理。」

「いま何をすべきか、を能動的に考えよう」

「英語は心配しなくていい。重要なことを話していれば、相手は必死で聞いてくれる。」

「海外から機器を持ち帰る時、日本の税関はベラボーな関税をかけてくる。
関税はいかなる研究費からも補填できないので、機器を日本に持ってくるのは大変。」

「『留学なんてしたくない』という人ほど、留学すると居座る傾向にある。
なぜなら、そういう人ほど日本的な考え方を持っており、
その方が渡英・渡米したときに「おもしろい考え方だ」と尊重してくれるから。」

「イギリスの給料は安い。でも事務仕事はやらなくていい。」

「自分の研究人生のために妻の人生を犠牲にしてきたことには罪悪がある」

「常に『本質とは何か』を考え、個性を出すこと。」



●島岡要先生
ハーバード メディカルスクールのラボでPIを務めていらっしゃる方です。

この先生だけ英語で講演をされました。

その理由;
「みなさん、留学をするときに、英語力が心配でしょう?
私も心配でした。
でも私は当時、ある日本人PIの人の英語を聞いて、
『この程度の英語力でもPIができるなら僕にもできるはず』
という不遜な自信を持ってしまったんですね。
そこで今回は、皆さんの恐怖心を取り除くために、
私がその時の様子を再現しようと思います。
私の下手な英語を聞いて自信をつけてくれれば幸いです」


天晴。
確かに英語は上手ではありませんでしたが、
それを自覚しつつも「学生に自信をつけてもらうため」にあえて下手な英語を披露する先生には初めて会いました。
その勇気には感服します。

あと、この先生はPIを務めるにあたって
経営学の勉強もされているそうです。
曰く「ビジネスの経営理論はPIの運営にも通じる」

ドラッカーなどの著書を読んでいるとか。
とても共感がもてました。

メッセージは
「Strength-Based Approach」。
ドラッカーの主張の一つでもあるようで。

「弱みを埋めるのではなく、強みを生かせ」


うーん、でも自分の強みってどうやって同定すればいいんでしょう。
自己分析っていってもねぇ・・・

同定した後も、その強みが必ずしも研究に役に立つものとは限りませんし。


●野水基義先生

キリン、NIH、カナダ国立研究所、北海道大学、東京薬科大学などで研究された経験のある方です。

その講演、もはや

神。

おもしろすぎる。
もう聴衆はずっと笑いっぱなしでした。

研究者のM1グランプリがあれば間違いなく日本一です。

メッセージは

「研究に笑いを!」

。。。


多様性バンザイ。

『生化学 若手の会』雑感(1)

『生化学 若手の会』に行ってきました。

著名な研究者の講義があったり、
海外留学についての延々4時間にわたるシンポジウムがあったり、
ベンチャーを目指す人のためのワークショップがあったりしました。

「醍醐味は、学生同士が夜に語り合えること」と、HPには書かれています。

いやいや。
醍醐味というか、もはやこちらがメインでした。
全プログラムの4割が交流会(=飲み会)の時間。

「勉強をダシにした交流会」という、先輩の言は間違っていませんでした。

そして実際、講義やワークショップなどよりも
この交流会の意義の方が大きかった、というのが個人的な感想です。

魅力的な人たちとたくさん知り合えました。

「これから新聞社に入って科学記事を書きたい」という人。

「タンパク質のフォールディングを網羅的に調べられるシステムを開発したい」という人。

「ベンチャー企業に投資するだけではなくて、経営を学ぶ機会も提供したい」という、
ファンド系志望の人。

アツい人が多かったように思います。
進路も多様だったので、将来は興味深い話が聞けそうで、今から楽しみです。

ある人は、学部2年生にして院生よりも生化学に詳しくて、自分なりの生命観も持っていて、将来のヴィジョンも描けていたので、軽く衝撃を受けました。
尊敬できる人が年上だけでなく年下にも多くなる年齢になってしまったんだなぁ。


私のこのブログを読んでくれている人にも会えました。
ほんと狭いですね、この世界。

ブログのことには一言も触れなかったのに、
「生成文法に興味がある」という点だけで推測したらしいのですが。
そもそれですごいな・・・
その人もエッシャーが好きとかで、何か通じるものを感じてしまいました。


この『若手の会』、かなり歴史が古いようです。
私の父も参加したようで。

当時の『若手の会』は、何人かの高圧的な人々が勝手に場を仕切っていたようで、現在とは様子が違ったのであろうと思わせました。

今回のスタッフは(参加者も)高圧的な人など皆無で、むしろ「もう20代も後半なんだから、もう少ししっかりしてもいいのでは・・・」という人も珍しくありませんでした。
まずは敬語の復習から始めてはいかが、という人が多数。
彼らがそんなことで企業から「社会性がない」と思われていたりしたら損だなぁ、なんて思ったり。

終始、「のんびりまったり」。
まさに現代の若者。


父の世代で「勝手に場を仕切っていた人々」は現在、大学の学長などになっているようです。
当時は、ほぼ全員が「院生→助手→助教授→教授→学部長→学長」コースを歩むであろうことが前提だったのでしょう。
全員がライバル状態。

現在の「若手の会」では将来の職が多様です。
記者、コンサル、ベンチャーキャピタル、人材育成、コミュニケーターetc。
「研究者としての職は少ない」ことが周知の事実になったことで、研究者以外の道を模索する人が増えたのかもしれません。
お互いに、ライバル意識は皆無でした。
国際競争で生き残るためには芳しくないようにも思われますが。

また、むやみに研究者の職を増やすよりも、
研究以外の職に理系院生が浸透できる状態のほうが
社会全体としては発展性が大きいのかな、とも思います。
アカデミアの知恵を社会に還元しやすいでしょうし、
社会もアカデミアに働きかけやすくなるでしょう。

今回の参加者は将来どのような人々になっているのか、想像してみるのも一興です。

日本人研究者の英語

とある国際学会@奈良に行ってきました。

私はただの聴衆だったわけですが。
それでも、普段は論文でしか名前をお目にかかれない大家を生で見て、
研究テーマも競合してることを実感できたのは有意義でした。

内容の詳細はとりあえず脇に置くとして、
今回は特に、日本人の英語のひどさが耳につきました。

私にはまだ業績が何もないので、人のプレゼンに対して何も言えないのが非常に苦しかったです。

ボスや先輩が

「あの人のプレゼン、本当にひどかったよね」

と言ってくれるたびに、

「(ああ、代弁してくれてありがとう)」
「(やっぱり業績があるっていいなぁ)」

なんて思ったものです。


いや、でも本当、圧倒的でしたよ、日本人の英語は。

なんというか、既に得意・不得意のレベルを超えて
マナーの問題に突入している人が何人もいました。

なぜわずか10分のプレゼンの英文をチェックしないのでしょう?
せいぜい1000語余りです。
全単語の発音やアクセントを調べようとしないのはナゼ?

almostは形容詞じゃないですよ。
stressのアクセントを「ト」に置いている人、そこに母音はありません。
doneを「どん」って読むの、やめてください。

中学生級のミスが多すぎます。
(しかもパワポのスライドにまで間違った英文が書かれていることもあり、非常に恥ずかしかった)
冠詞専門の文法書を何冊も買って勉強している自分がアホに思えてきます。

私がもし国際学会で発表できる機会を与えられたら
誰にも文句が言えないほど文法も発音も語彙選択も完璧にしていくのに。

それとも国際学会というのは、私が思うほど魅力的ではないのでしょうか?

いや、たとえそうであっても、20カ国以上から300人以上の研究者が集まる場において
聴衆の時間を浪費させるような行為はしたくありません。


それと司会者!
自分が担当するところの演題や演者の発音を、事前に練習しないのはなぜですか?
一単語ごとにつっかえたり、演題の中の「12」を「イレブン」って読んだり、
そういうのは失礼と思わないんですかね。


あ、もちろんプレゼンのうまい研究者もいましたよ。
とても安心して内容に集中できました。
自分の業績を正当に評価してもらうためにも、最低限の英語は必要と切に思います。




とりあえず実験のほうを頑張ろうっと・・・

Synapses 第4章 1~2節

自主ゼミでSynapsesというテキストを輪読しております。

自分の担当になった第4章を全訳しようとして挫折・・・orz

意外に翻訳は時間がかかる。

昔は、「なんで The Molecular Biology of the Cellの翻訳に4年もかかるんだ!(怒)」なんて思っていましたけど。
多忙の先生方が時間の合間を縫って翻訳するのは本当に大変な作業なんだろうな、と思ってしまいました。
4年もかかって誤訳があるのもどうかという気はしますが。

自分の集中力のなさも浮き彫りに。
集中力MAXの時には1ページ15分で訳せるので、計算上は1日で全部(30ページ)訳せるはずなのに・・・。


以下、4章の1節 The Synaptic Vesicle Cycle と2章の Synaptic Vesicles の翻訳。
役抜け、誤訳がたくさんあるハズ。
この量なら著作権・版権上も問題ないハズ。

【“Synapses 第4章 1~2節”の続きを読む】

ブログを書くことで悟ったこと

ここ数日、大したエントリーもしてないのにアクセスが異常に増えたと思ったら
かの有名な Gardener’s Diaryの管理人さんからリンクされていたことが判明しました。

加えて、はてなのお気に入り登録されたことも寄与しているようで。

一気にPVが1万を越えました。

エントリーのやりがいがあって嬉しい反面、
ますますテキトーなことが書けなくなっていきます。
(これまでテキトーなことを書いてきたというわけではありませんが)

ブログのアクセスが増えるに従って
mixiでのエントリーがテキトーになっていきます(^_^;


梅田望夫さんの『ウェブ進化論』に書いてあった、
「ブログを続けることの最大の利益は、エントリーすることで勉強になり、自分自身が成長すること」
という言葉に触発されて始めたブログなのですが。

今のところ、
「エントリーすることで勉強になる」というより
「もっと勉強しなきゃエントリーできない」ことが理解できた感じです。


要約を読めば「なんとなく」わかっても、そのレベルではとても文章化できません。

潤沢な背景知識を持っていれば、論文中の情報を重要度の順に
階層化し、再構築することが可能なのですが、その背景知識がなさ過ぎて困ります。

神経科学にしろ構造生物学にしろ、専門に特化した講義は学部にも院にもないので
通常の院生がいったいどうやって勉強しているのか不思議です。

こつこつ専門のテキストや基礎的な論文から勉強しているのでしょうか。

この膨大な量を?


「独学で修得できないようでは研究者にはなれないよ」
という一種の試金石のようなものなんでしょうかね・・・OTZ


もっともっと、ブログ上に日本語でレビューを載せてくれる研究者が
増えてくれればいいな、と思う今日この頃。

「150量体」は英語で何と言う?

日本語では、8量体のことを8 mer(はちまー)と言ったりする。
(うちのラボだけなのだろうか?)

octamerよりも直感的にわかりやすいからだろう。

150量体とかになるとそもそも読み方を知らない場合が多いので、
「ひゃくごじゅうまー」と読むことに正当性はある。
(「ひゃくごじゅうりょうたい」でいい気もする)


がしかし、ふと疑問に思った。

英語のネイティブはどうやって表現しているのだろう?

ネイティブは、
enneakaidecamer(19量体)とか
hectopentacontamer (150量体)とか
本当に使うのだろうか??

それとも日本のラボと同様、
one-hundred-and-fifty mer
と表現したりするのだろうか。

今度確かめてみなければ。

卒業/大学で何をすべきだったか

昨日、大学を卒業しました。
来週からやっと院生になります。

名実ともに研究生。
生活はこれまでと変わりませんが。


良い機会なので、部屋の中の本の整理をしていました。

毎日1冊以上のペースで本が増えていくので
定期的に処分するか実家に送らないと生活のための空間が侵食されます。

整理する中で、「大学で何をすべきか」というテーマの本が大量に出てきました。
高校~大学1年くらいの時に買い込んだものです。



各人が、それぞれの経験を基に好き放題アドバイスしています。
マーカーを引いてある箇所で、当時の自分が何を思ったのか推測できるのも楽しいものです。

「自分探しの前に他人探しをしろ」

「学問のおもしろさがわかればそれだけで十分」

「何も学ぶものなどない」

「英語とコンピュータ、この二つをマスターすることは必須」

「読書は大学生の仕事。特に古典を読め」

「『するべき』何か、ではなくて『したい』何かを見つけよ」

「”能動的に遊ぶ”能力のない人にとって、”レジャーランド”は地獄ですよ」


時代を追うごとにアドバイスがだんだんゆるくなっていくのもおもしろい。

1980年ごろの本には「目標に向かって努力せよ」系が多いのに対し
1990年代後半では「目標がある人なんて例外。寄り道しながら進め」系のアドバイスが増えてきます。

バブル崩壊前後、と見るべきか。


私だったら、後輩には

「自分は大学生活でこれをやった」と言える何かを作るといいですよ、

と言おうと思っています。
私自身、曲がりなりにも「これをやった」と言えることがあり、
それによって大学生活が非常に楽しく、充実していました。

加えて、「これをやった」と言えても
「これをマスターした」とまではとても言えないレベルなので、
「もっとやればよかった」という思いが残るのも確かです。


私は、非常に多くの人が「英語を勉強しておくべき」と
書いていたので、「これをやった」と言えるものとして
英語でのディベート・ディスカッション・スピーチを選びました。
しかし、今思い返せばその「何か」の選び方からして
かなり受動的だったな、という反省もあります。

研究テーマの決定権は各人あるという研究室に飛び込んで、
今後どういう研究をしていくかを自分で考えていくうち、
「能動的に自分の将来のレールを決める」ことの難しさと楽しさを
やっと最近気づき始めた段階にいます。


研究室のボスには
「大学院でも研究を楽しんでくださいね」
と言われました。

「頑張ってください」でなく「楽しんでください」と言われる
この恵まれた環境を可能な限り生かしたいと思います。

大学院も楽しく、充実したものになるように。
今度は「論文」という形で「私はこれをやった」と言えるように

膜電位シンポジウム(1)

現在、膜電位シンポジウムに来ています。
学会もどきです。

私は電気生理や有機化学の基本をしっかり学んでいないので
半分くらいは意味不明でしたが、それでも興味深い話でした。

昨日は「電位依存性KチャネルのS4はどのように動くか」
というテーマだけで5人ほどが講演し、丸一日を費やしました。

上下運動?
平行運動?
ねじれ運動?
回転運動?
それともS4は動かずに周囲の環境が変化しているのか?

それらを検証するための実験方法には感心させられます。

がしかし、冷静に考えれば、かなりテーマが狭い
かなりマニアック。

そしてさらに冷静になると、S4の動きがなぜ重要なのか
イマイチ自分自身でよくわかっていないことに気づきます。

動き方によってopen/closedの構造が異なるから
機能を検証する上で重要なことはわかりつつ。

あと、動き方によって開閉に必要なエネルギーが異なるので
電位依存性Kチャネルに関わるすべての議論に影響を及ぼすという感覚はありつつ。

しかしその重要性を具体化できない。
素人に対して「ストーリー」を語れる状態にない。


やはり基本が抜けてるのがいけないんだろうな。
そろそろ院生なのに基本とか言ってるのが恥ずかしいのですが。


各演者の論文を簡単に紹介しようと思ったものの
昨晩ノートパソコンが突如壊れて電源さえつかない状態なので
一旦断念しましたorz

ダリとエッシャー:科学好きの画家たち

ダリ展に行ってきました。
大阪、サントリーミュージアムで行われています。

ダリって誰?
という人も、「記憶の固執」という絵はどこかで見たことがあると思われます。
柔らかい時計が木に引っかかっていたりする、あれです。
(本当は絵をブログ上にアップしたかったのですが、
著作権の関係で問題がありそうなのでリンクにします)

ダリは、科学に強い興味を持っていた珍しい画家の一人でもあります。

1930年代に描かれたこの「記憶の固執」は相対性理論の影響を受けています。
(時計が歪んでいるのは時間が歪むイメージ)

1950年代以降は、原子力物理学にハマっています。
原爆投下が強いインパクトを与えたようです。

「記憶の固執の崩壊」という絵では、「記憶の固執」をベースにしながら
モノが核分裂によって散り散りになってしまうイメージが描かれています。

1970年代以降は、今度は生物学にハマっています。
DNAの発見が彼にインパクトを与えたようです。
二重らせんのモチーフが何度も登場します。

今回の展示ではDNAをモチーフにした絵はあまり見られませんでしたが、
東京・上野の森美術館でのダリ展ではもっとわかりやすくDNAをモチーフにした作品を見ることができました。

DNAが左右対称ではなく、ちゃんとメジャー・グルーブとマイナー・グルーブがありました[1]。
(あ、左巻きか右巻きかを確かめるのを忘れた・・・)



【“ダリとエッシャー:科学好きの画家たち”の続きを読む】

【BOOKS】『すべては脳からはじまる』

すべては脳からはじまる すべては脳からはじまる
茂木 健一郎 (2006/12)
中央公論新社

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「このところの日本の『脳ブーム』はやや表層的で、上滑りの感がある」

本書の中の一節である。
私も全く同感である。

しかし、本書もその「上滑り」の脳ブームに便乗した本にしか思えないのもまた事実。

茂木健一郎さんの本は、エッセイとして読む分にはおもしろいが
「脳」という単語を使いすぎのように感じる。

この人の使う「脳」は単に「人間」と置き換えられるものがほとんどで、
それを「脳」と表現することの妥当性が薄いように思われる。

「他人の行動を変えようと思ったら、『ほめる』のが一番である。認められることは、社会的動物である人間の脳にとって最大の報酬の一つだからである」

この文にある「脳」は削り取っても何の問題もない。
「社会的動物である人間にとって最大の報酬」で通じる。

「ほめる」という、神経学から見ると定義不明な言葉と、
「脳」という言葉を一緒に使うこと自体に違和感がある。
(これは茂木さんだけではなく心理学一般への違和感ではあるが)

神経科学的にそこまではっきりしたことはわかってないはずなのに、
というレベルのことまで完全に言い切っている。
「あるある」一歩手前・・・?

エッセイにまじめに突っ込むのが野暮なのかもしれないが。


以下、脳科学とは全く関係のない点についての感想。
【“【BOOKS】『すべては脳からはじまる』”の続きを読む】

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